日々

生活とその周辺

南米(ボリビア)

ちょっとペルーのことも。ボリビア滞在中は高山病に苦しむ。

 

 飛行機にのってボリビアの首都ラパスへ。標高は4000m越え。いいかげんにしてほしい。ボリビアは6000m級のアンデスの山々に囲まれているため、4000mは序の口なのだろうが平地で安穏と暮らしてきた人間としては過酷すぎる環境だった。 

 ラパスの街の形状はすり鉢型という特徴的なつくりになっている。谷底に向かって都市が発展しているイメージ。上から下へロープウェイにのって降りていく。ガイドさんが途中険しく突き出た岩々とそこに挟まっている車(おそらく当時運転していた人間が中にいる)を指さし、安全な作業場を確保できなくて何年かかっても救出できてないんだよね~と解説してくれた。怖すぎる。初めてみるラパスの光景は曇天、砂、汚れで彩度が極端に低くぼやけていた。日本であれば3月のこの時期、そろそろ新芽などがみえるころだというのに、全く色調が見当たらない。ロープウェイから降り立った土地は雑草も落ち葉もなく、枯れた低木が申し訳程度に飾られているだけ。このままこの都市はゆるやかに砂に飲み込まれていくのではないかという感じがする。阿部公房「砂の女」みたい。あれも砂の斜面の物語だしね。

 ガイドさんに「カバンをしっかり前にもって!」「話しかけられても絶対に無視!」と散々脅されながら、ハエン通りや街中をブラブラする。全体的にくすんだ街並みの中に、原色に近い果物、グラフィック、女性の伝統衣装が映えていた。ムリーリョ広場、大聖堂などを観光する。車で街中を移動する際に、渋滞というか―車同士をこすりつけあいクラクションを盛大に鳴らしたり罵声を飛ばしたりして自分の進みたい方向へ道を切り開くドライバーたちの―カオス空間に巻き込まれた。信号や道路の標識・白線はない。あったとしてもみんな守らないからいらないそう。ベトナムカンボジアなど東南アジア地域でも同様のことがあり、環境としては最悪だけれどノスタルジーを感じた。街中ではデモが起きており、郵便局が封鎖され、銃殺される人間も多いらしく治安はいまいち。再び空港へ向かいウユニ塩湖へ。

 コルチャニ村にて塩づくりの見学をしたり(塩で作られたアルパカを買ってしまった。アルパカは罪)、ホテルにチェックインしたりする。ラパスに引き続きウユニ塩湖は約3700mの高地にあり、高山病による慢性的な頭痛を感じてこのころからアスピリンを過剰摂取しはじめる。ウユニ塩湖に踏み入れるためには4WDが必須、つまりツアーに必ず登録しなければならないので、怪しげな業者や酩酊した運転手がいそうなところは避けて、値段もみつつ検討してください。

 ウユニ塩湖は琵琶湖の約18倍の面積だそうで、数字からはなかなか想像できないかもしれないけれど、360度すべての地平線に湖が広がっている様子を思い描いてほしい。訪問したのはちょうど雨季だったため、塩湖にたまっている水がかなり多い状態だった。いわゆる空と湖の境界線がなくなる(反転された)インスタ写真をとることができる時期としてはベストシーズンで、私たち以外にも写真撮影にいそしむ日本人をよく見かけた。一方、同行した欧米人のように地面に真っ白な砂が形成されている風景の方が好きという人もいた。湖は広大なので雨季とはいえ実際にそういう場所もあり、さらに温泉がわいているところもあって、煙の中を通ったりして遊んだ。少しホテルで休んだのちウユニ塩湖の夕陽観光へ出発し、すごく甘いワインで他のツアー参加者と乾杯する。頭が痛いのでお酒は楽しめず、星空観光に挑戦するも雲の厚さと寒さで断念したことが心残り。アスピリンを飲んで就寝。

 夜明け前にアスピリンを飲みホテルを出発。朝陽観光へ。空はまだ暗く、運よく星が見える状態で南十字星を観察できた。しばらくすると日が昇りはじめ、周辺に光を遮るものがなく一切影のできない日の出をはじめて鑑賞した。ガイドさんに促されるまま、遠近法などを駆使し何度もトリック写真や動画を撮影する。撮影大会が終了するとリャマと塩の博物館へ向かい、リャマの可愛さに心を打たれる。なんにも考えてなさそうなまん丸の黒目がいいよね。次に向かった先は列車の墓場という列車が打ち捨てられた場所で、日本の会社がウェディングフォトをとっていた。まっさらなウェディングドレスの白さと、さび付いた列車の退廃感がよいコントラストだった。ウェディングフォトとしてよいのかは不明。

 最終日は頭の痛さで目覚めながら、時間通り空港へ向かった。しかし、恐れていた事態、南米旅行あるある、飛行機の大幅な遅延にあってしまった。3時間ぐらい空港で待ち、クスコ(ペルー)へ戻る。さらに乗り継いでリマ(ペルー)へ。書いていてしんどくなってしまう。夕方に近づいていたものの、もうしばらく来ることはないかもしれないと無理をしてスペイン植民地時代の雰囲気が残る市内の観光やアルマス広場、ラファエル・ラルコ・エルラ博物館へ弾丸ででかける。ガイドさんありがとう。ラファエル・ラルコ・エルラ博物館は民俗学が好きな人には、タペストリーや土器などたくさん置いてあり一番お勧めしたい場所だった。あと下ネタが好きな人。かつて文字を持たない文化圏では子どもたちへの性教育を埴輪(土偶?)を使って説明していたそうなので、それらの作品をたくさんみることができる。博物館にしぶしぶ連れてこられたらしき思春期の男の子たちはそのコーナーだけ、はしゃいでました。

 ホテルに到着した時はほとほと疲れ果てていた。しかしリマは標高が低くようやくアスピリン地獄から解放され、歩いても頭痛がしない恩恵をかみしめることができた。翌日はホルヘチャベス国際空港からLAへ。乗客の話によると南米旅行ついでにLAのディズニーに行く人もいるみたい。元気だ。隣に座った82歳の女性(お世辞抜きで60歳にしか見えない)はブラジルでヨガの講師をしている日系人で、四国に住む、かつてホームステイで受け入れていた女の子に会いに行く途中だった。今学校が休みで旅行中で~という話を彼女になんとなくすると、「ブラジルの学生は自分で学費を全部稼いで在学中も働きながら勉強するのに、日本の学生はお遊び気分で甘やかされているね」という強烈な発現を繰り出され対応に困ってしまった。私は人よりも長いことぷらぷらしている身であるうえ、本当におっしゃる通り!としか思えないのだけれど、「まあ教育制度や理念もきっと違いますからねえ」という曖昧な答えを返して機内食を食べることに専念した。

 南米にはまた行きたいが、次は1か月ぐらいの猶予をもってというのが私と母の共通見解でした。普段日本に住んでいると距離感が分からなくなってしまうけれど、南米大陸はあまりにも広大だった。あと一人旅するならスペイン語話せた方が楽しい。卒業旅行では日本と全く違う人種、文化、色彩、自然を楽しませてくれる南米をもっと経験したいと願ってはいるがはたして…。

 

 

ところで阿部公房「砂の女」について。「砂(≒生活※私見)」や「監禁されること」などこの作品がコロナ禍でよりアクチュアルな問いかけになったと思うのですが、どうでしょうか。

 

 

屋久島1

医学部に入学する前、ある年の夏の終わりに屋久島に滞在した頃のメモがみつかった。

このころは気持ちがまいってしまった時期で、とにかくここを物理的に抜け出そう、精神を休めようと屋久島にある禅寺に1週間と少しばかり修行した。今振り返って読むと自分自身のナイーブさと虫の多さに苦笑してしまうけれど、よければ一緒に笑ってください。

 

【一日目】

 冗談みたいに小さいプレハブ小屋みたいな屋久島空港につき、宮之浦港へ向かうバスに乗車する。37番。島民はのんびりしていて、皆顔なじみのようで、運転手さんが男の子のランドセルからいつもそうしているようにICカードを出してタッチしてあげていた。人間の距離が近いのかな。車窓からはよく手入れされているお墓がみえる。「この島の人々は一日に三回、少なくとも週に一回はお墓参りをする。お嫁に来た人は大変だ。」と全くの初対面のわたしにも話しかけてくる。私が下りたバス停は、普段あまり観光客が下りるところではないらしく間違ってないか何度も確認された。

 ひとまず目的地についたので、到着したと電話する。とても元気のよい声をしたお兄さんから「テトラポート側へ向かって歩いて」と言われ、その方向に荷物を転がした。遠くで釣りをしている3人の人影がみえ、その中の気の弱そうな男の子が駆け寄ってきて迎えてくれた。どうやら私の先に修行をしている人がいたらしい。メンバーのKさんは小太りだが筋肉質。先ほど電話に出たお兄さんで、よくしゃべり明るくて面倒見がよさそう。もうここにきて一か月半らしい。気の弱そうなIくんは180cm近い長身で、元バスケ部。事情があって3か月ぐらい滞在するらしい。保護観察がなんとかかんとかと言って煙草をふかしていた。厳しそうな住職とあわせてこの3人と人生初の釣りをする。釣りは難しくて、エサのエビはすぐに食べられてしまった。手は臭うし、潮風に体があたってベトベトして不快。(今の屋久島は湿度が高いからベトベトはそのせいかも)

 17時半になっても誰も収穫がなかったので、スーパーで買い物することになった。肉も魚も買う。宗教上いいのだろうか?食材を車に載せて禅寺が位置する森の中へと進む。どんどん山中へ分け入っていき、道はどんどん曲がりだす。まだ先なのか?と訝しく思っていると5軒ぐらいの集落にたどり着く。しかし、それもお構いなしにまだ先へと進む。あきらめてシートにもたれていると、川沿いにポストがぽつんと立っている広場に停車した。そこから車は進めないため、みんなで荷物を抱えて川(飛び石っぽいのはある)を渡る。川を越え、山道を登っていくと金網状のフェンスがあった。あけると「ちりん」とかすかに音がした。もう少し登ると小屋が二つあった。

 小屋の一つは共同の作業所でもう一つは大人数が雑魚寝できるようなところだった。女性は離れの部屋があてがわれるらしく、そこに荷物を置いた。上はトタン屋根。部屋には虫がたくさんおり、おちおち寝ていられないけれど、慣れたらなんとかなるのか。見たこともない大きさの蜘蛛の抜け殻?もある。これはミイラ?夕食はカツオのたたき。釜戸で火をおこしている間にこの修行場のルールをきいた。食べるときの作法とかお椀の配置とか色々ある。といっても私たちの生活にもルールはたくさんあるのだけれど。夕食の片づけをして座禅の練習。ここにも規則がたくさん。本堂は寝食をする小屋から離れていて、とても立派。次の日のことを不安に思いつつも、作業部屋に戻る。少し住職とお話をする。「もっと滞在しないと意味がないよ」とか「日韓問題についての立場を考えると朝日新聞はよくない」とか断定的な物言いの人だし、ちょっとナショナリストぽくて落胆する。お風呂は3日に一回らしいから今日は入らずもってきた寝袋を敷いて就寝。雨の音に何度か起こされた。そして虫の多さにふるえる。巨大な蜘蛛が天井に張り付いているのをみながらうとうとする。

 

【二日目】

 朝4:50分に目覚ましが鳴る。真っ暗な闇の中、本堂へ。すでにKさんはいた。Iくんは起きてこれず、途中の読経から入ってきた。座禅45分。眠さと体のかゆみと戦いつつ座り続ける。朝ご飯はおかゆ。作務は汲み取り式のトイレに入れる干し草を集めたり、500m先にある湧き水のところまで水を汲みに行ったりした。きのこ、蔦、水の流れ、山道。昨日の朝まで住んでいたところとは違う景色や音が新鮮。自分の部屋を掃除し、休憩にはいる。もってきた「ブッダの言葉」を読む。途中、住職に呼ばれゴミの分別を手伝う。昼ご飯の準備に入る。私は、納豆、ほうれん草、もやし、トマトのサラダを作る。休憩する。おそらく電機がこの作業場にしか通っていないため、夜はここでしか日記が書けなそう。

 写経をする。行と列のバランスを保って字をそろえるのが難しい。集中力があがりそう。無心になって書く。休憩中に川で水浴びをする。17時から夕食の準備をする。ご飯が炊けるのが遅くなってしまった。野菜炒め、味噌汁、ごはん、魚のから揚げ。休憩して夜の座禅。外は土砂降り。座禅の途中睡魔に襲われる。帰り際に足元が見えなくてこける。雨の影響か、蚊が大量発生し蚊取り線香をたいた。おかげで蚊は少なくなった気がするけれど、懐中電灯の光めがけて巨大な蛾が集まってくる。部屋が蚊取り線香くさい。夜はせめて元の家に帰りたいと思いながら寝る。

 

【三日目】

 今日も雨。いつになったら晴れるのか。朝5分寝坊し住職に起こされる。朝の座禅の最中に窓の外が濃紺から薄い水色へだんだん明るくなっていくのが分かった。朝ご飯づくり。休憩し「ブッダの言葉」を読む。作務の時間は本堂の掃除をする。またすべってこけてしまう。疲れが出てきているのか気持ちがけば立つ。気を付けないと。本来であれば雑草を抜いたりするらしいけれど、雨続きですることがないそう。一時間半ぐらいの長い休憩に入り仮眠する。昼ご飯づくり。今日は煮物。かぼちゃ、こんにゃく、にんじん、さつまいも、鶏肉を入れた。おいしい。休憩。再び写経の時間。年上を敬うことや、食事前に唱える「五観の偈」の意味の説法がある。ご飯を大切に食べるのはわかるけど、年齢関係なく敬うべきなんじゃと思う。17時からカレー作って食べる。水浴び。夜の座禅。夜の座禅は昨日よりきつさはなくなった。

 

【四日目】

 きちんと起きれた。姿勢をよくして胸をはると座禅していて気持ちがよい。朝食準備のときにはじめて一人で火おこしができるようになった。洗濯もできて気分がいい。今日は晴れたから魚釣りに行く。車で山を下っていって、地元の釣り道具店でエサや氷をもらう。崖をおりた先の岩場で釣りを開始。しかし、波が荒れすぎていて釣れず、次の堤防へ向かう。そこでI君が大きい魚をつったが、それっきり全く釣れずまた移動する。三度目の釣り場ではじめて魚を釣り上げる。とても小さいのでそのまま海に返す。車で山に戻る。

 屋久島の海や緑に心奪われつつ、水浴びして夕食を作る。釣った魚の刺身、から揚げ、キャベツの千切り。今日は少し遅い20:00から夜の座禅が始まる。今日はいつもよりとても長く座っていたような気がした。部屋にもどって懐中電灯を照らしていても今日は蛾が寄ってこない。虫が当たり前になる生活になってしまった。

 

【五日目】

 今日もきちんと4:55に起きることができた。朝ご飯をつくる。朝から鼻水がとまらなくて、おそらく風邪をひいてしまったらしい。外は(部屋の中も外みたいなものだが)急に冷え込んできている。おちおち毎日頭を濡らせない。休憩中にI君とお話をした。高校生の頃から始めた薬物関係で少年院に入っていたらしい。薬物で相当脳が萎縮したらしく(これは住職さんに後できいた)、ワーキングメモリが小さくて、例えば掃除機の蓋があけることができなくて、よくパンクしていたのはそのせいだったのか。もともとの形はよさそうなのに顔も頭も落ちくぼんでいて、はじめて出会う「本物」の元薬物中毒者を真正面からまじまじと見つめてしまった。

 昼の作務は薪の材料をひとりでとりにいった。他のメンバーは薬をもらいに行くI君の病院の付き添いと、食材の買い出しのために街に出かけて行った。昼ご飯の準備の時に、火をおこすのに苦戦した。途中電話が鳴り、今から帰るとのこと。カレー、味噌汁をつくる。日焼けした跡が痛い。14時から昼の作務。今日の夕食は16:00~準備。そうめんのみ。I君は薬が効きすぎて寝ている。作業場にハエや蜂が入ってきてうるさかった。今日はI君以外のメンバーは座禅堂で泊まり込み。歯を磨いているとKさんにばったり会う。明日の昼頃から次の目的地へ旅立つそう。別の島で2か月農業するらしい。Kさんのポジションを補完できるか不安だが、やらないと。それよりもI君は私がいなくなってからもここにいるらしいけど大丈夫なのかな。

 帰るまであと5日。

 

 

南米(ペルー)

いつかの春休みにペルーとボリビアに行ってきた。「マチュピチュ遺跡とウユニ塩湖みたーい、一緒に行こ~」という母親からの誘いで旅行が決まった。金銭的スポンサーも彼女です。ありがたや。ちなみに私の家は父親と母親がそれぞれ別の食器用洗剤使ってるぐらい仲が良くないので、父親は猫とお留守番でした。

 

地元の空港からロサンゼルスまで飛行する。至れり尽くせりANAで、恐縮するぐらいおもてなししてもらい、はるか彼方にある見知らぬ目的地に行くのが億劫になり、心底日本から離れがたく思った。ところで、航空会社の話なのだけれど、ユナイテッドが最悪なのは異論がないとして、個人的にはフィンエアー推しです。あのこざっぱりしたサービスと機内のデザイン性がとても好きだ。日本のサービスはちょっと過剰じゃないですか?そんなことをぼんやり考えてたり映画をみたりしていると、日本との時差17時間のロサンゼルスに到着した。頑張れ私の松果体。乗継便まで3時間ぐらいしかなく、魔のロサンゼルス空港で魔のアメリカ入国手続きを終え(イミグレーションめっちゃ厳しい)、急いで搭乗口に向かう。テロがあってから警戒が強まっているみたい。そして日付変更線と赤道をこえにこえ、ようやくペルーの首都リマにつく。日本→リマ、約24時間。さすがに腰とおしりがバキバキに痛くて満身創痍でゲートを出てきたところで、「良く寝れた~、機内食豪華だったよ~」というビジネスクラス組の母と合流した。はやく医者になりたい。空港近くのホテルに泊まり、ピスコサワーという、ピスコ、ライムジュース、シロップ、卵白で作ったウェルカムドリンクをいただく。度数が高すぎてすぐに就寝。

 

ホテルを出発し、クスコ行きの飛行機にのる。ちなみにこの旅では14回ぐらい飛行機にのったので、延々と飛行機に乗るフレーズがでてきます。クスコの標高は3400m!ようこそ高山病。なるべくゆっくり動き、酸素を無駄に消費しないようにする。予約していた現地ガイドさんと無事会え、市内観光を開始。無意識に観光スポット目指して駆け足になったり、なんならいつものペースで歩こうとすると、ガイドさんから注意を受けるので、幼稚園児に戻った気分だった。サントドミンゴ教会、コリカンチャへ。カトリックっぽい重厚さなデザインながら、土の色をしていて南米らしさもあり面白い。アルマス広場ではランチにキヌアスープ、ロモサルード、バナナケーキを注文した。基本的にペルーで口にしたものはすべておいしいおいしいの連続で、私の旅のメモも、食べた料理であふれている。のちに食べ過ぎでお腹を壊す。様々な文化が融合しているうえに、国土はアンデス山脈から太平洋沿岸まで広がっているため、食材も品目も多彩でまずいわけがない。午後からは旧市街を散策しながら、大聖堂や12角の石を見学する。石を積み重ねるすごい技術。なんとなく大阪城の城壁を連想する。アンデスの山々に囲まれた風景を心にとめて、ウルバンバへ。ウルバンバはマチュピチュ近辺の地域。いよいよ天空の都市に近づいているぞと気持ちは高まるばかり。とりあえず夜になったので、川の音がよく聞こえるホテルで休む。

 

マチュピチュに行く日。ガイドさんに谷間のオリャンタイタンボ村に寄り道してもらったりしながら、青い車体が美しい展望列車に乗車。乗車中は合法的にコカ茶をたしなむ。日本に帰ったら飲めないので、コカ茶は高山病対策ということもあり滞在中がぶ飲みした。最初は苦みにびっくりするけれど、徐々に病みつきになる(依存症のはじまり?)。車窓からうつる景色は岩と低木ばかりで、ペルーの厳しい気候条件を垣間見た。マチュピチュ遺跡は、テレビ番組とかでご存知だとは思うけど、よくぞこんなところに都市を建てたなというところにあった。そらしばらくは見つからんわ。とはいうものの、欧米人が「発見」するまでは、地元の人はこの建造物の存在を認知しており、電車の線路もコカを運ぶための通路として昔から利用されていたとか。それだったら隠しておきたいよね。

 

ホテルに荷物を預けたし、さあ遺跡探索だとなったところで私のお腹が猛然と不調を訴えだした。「さっきまであんなにたくさん食べてたのに」と心配する母とガイドさんに置いていかれて、ホテルのベッドの上で外の楽しそうな観光客の声をききながらその日は終わった。私のマチュピチュ…。高地に入って消化管運動が減弱しているのに、食べすぎたみたい。でも体重はこれでプラスマイナスゼロ。

 

翌日になってもマチュピチュは諦められなかったので、早朝からハイキングに行くという強すぎる母を送り出し昼前から一人遺跡へ向かう。頼むから不機嫌になるなよ…とお腹に念じホテルのある村からバスでさらに上にあがる。そして!最初のきつい登りを我慢した後に!念願の!マチュピチュ遺跡!世界史資料集でみたやつ!尊い!少し霧がかかっていたけれど、展望台から浮かれてセルフィ―などしてしまった。それからは聖なる門、太陽神殿、石切り場、コンドル神殿などなど大興奮の連続だった。古代信仰とかが大好きなので、神殿の説明で「どのような儀式のためにに建造されたのかは正確にはわからないが」という文言があるといちいち強烈に惹かれてしまう。都市を形成していたので当たり前だけど、石で構成される遺跡は非常に大きく、内部を見学するのにはなかなか時間がかかった。まだマチュピチュ遺跡の想像がつかないよという人はラピュタの天空の城を思い浮かべてください。大体あんなもん。ふと高台から下の遺跡を見下ろすと、普通にまっ白なリャマがぽつぽつと群れを作って草を食んでおり、植物の緑と良いコントラストを作っていた。リャマってなんでこんなにかわいいんだろうか。

 

さて相変わらず元気いっぱいの母と無事合流した。マチュピチュ遺跡から麓の街までの帰り道、電車を待つ間、ケーナアンデスの笛)奏者の、観光客向けの演奏「コンドルは飛んでいく」を聴くとはなしに聴いていた。わたしは小学生かその辺りの年代に初めて聴いたときから、いつもこの歌に物寂しさを感じる。地平線がどこまでも広がるカサカサの大地と、ところどころに生える低草木やサボテン。土にまみれた家。暗い目をした褐色の肌の人々。改めてペルーで聴きなおすと、ペルーという土地の物寂しさをこの歌は内包しているように思う。

 

ボリビア編に続く。

1月

毎年いつの間にか年が明けている。

 

一月の第一週から授業が始まった。といっても朝に送られてくる課題にこたえるというオンラインの形をとっていたので、自宅でパジャマを着ながらwordをみつめキーボードを打ったりしていた。年末年始は感染が爆発している地域に位置する実家に帰省したため、わたしの大学のあるところに戻ってから2週間は自宅からほとんど出ず(スーパーに隔日でいくのと、ちょっとした散歩)、人と会話せず(スーパーも自動レジを使用)コミュニケーションという人間活動の大事な部分があまりこなせなかった。

 

そのせいか、あるいはホルモンバランス的なものなのか冬季うつ的なものなのか、月の前半の終わりごろめちゃくちゃに体調の悪い日が続いた。この頃のメモを読み返すと、洗濯機が回るのを延々と見つめていたり、トマトソースを床に少しこぼして涙目になったり、12時間連続で寝続けたりと結構しんどそうな自分がいた。それから「私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。」(ヨブ記7章16節)って感じでまんじりともせず横になったり、インターネットの海で美しい家具たちを延々と検索してたり、とにかく情緒に振り回されていた。せっかく日々を平穏なものにするために積み重ねてきた労力が、こうして一瞬にして打ち砕かれるとさらに落ち込んでしまう。とはいえ、朝型を維持し、23時ぐらいに就寝。三食きちんと調理し、完食する。嫌いな運動も続ける。毎日光を浴び、部屋の秩序を維持する。という表面上の「まとも」をなんとかこなしていたので、今回も切り抜けることができた。

 

年賀状がわりにとここ6年ぐらい会っていなかった友人から突如LINEが来てすごくうれしくなった。誰かの記憶に数年たっても残っていて、しかも連絡をとって再び関係性を構築してくれるってありがたいことだなと思う。誰かの善意に頼るのではなく、自分からもう少し働きかけるようになれたらいいなと毎回反省してます。

 

年始のEテレで「100分de萩尾望都」という特集番組があり、題材はいうまでもなく、解説者が全員オタクでとてもよかった。まさかご本人もインタビューにこたえてくれるなんて。番組が進行するたびに一人でいちいち感想を声に出したりそわそわしていたので、そばでハーブ(合法)の勉強をしていた妹に「ちょっと落ち着いて」と諫められたぐらい楽しめた。萩尾望都さんの作品は高校の現国の先生からおすすめされたもののひとつで、「漫画ってあくまでエンターテインメントであって文学みたいに芸術性はないよね」って斜に構えていた当時女子高生だったわたしを圧倒してくれた、従来の漫画の概念を取っ払うものすごいものなので、同じように思っている人も少年青年漫画専門の人もぜひ読んでみてください。

 

友人たちとオンライン飲み会をした。皆もう社会人として立派に働いており、普段の仕事に加えて夜間学校へ入学したり、DJデビューしたりと次のステップを着々と重ねていた。だから自分がどうというものでもないけれど。色んな人生の選択肢をみることができて、面白い友達がいるというのはいいものだなと思って参加しています。PUIPUIモルカーの話や、在宅勤務(私は勉強)をいかに充実させるかという切実な話で盛り上がった。あと筋トレをゴリゴリにこなしているという友人は、「ダンベル何キロ持てる?」というアニメを見ていない自称筋トレ好きは全員偽物という過激論を展開していた。ビートに疲れたあなたに、在宅業務がはかどる曲としてForest Notesという自然音(水源地の音)をきけるアプリを紹介してもらったので、よかったらどうぞ。

 

 

12月

12月の実習中は臨床倫理の教室にお邪魔して、担当の先生とお話をしていた。常々、私は倫理観のない人間だと思っていたのだけれど、欠けているのは道徳心で倫理観はこの実習を通して少し枠組みをとらえることができたのではないかと期待している。それからケーススタディをいくつかして、人間の意思決定ってすごく難しいことが今さら実感させられた。ちょっとしたヒントとして、大竹文雄『医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者』、國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読んだ。ナッジという手法で私たちの意志は操作することが流行りらしい。國分さんの本は、中動態という態をめぐる冒険に連れ出してくれて大変興味深かく、スピノザの章になると嬉しそうな文体になってにっこりしてしまった。あと、福井次矢『臨床倫理学入門』、トニー・ホープ『医療倫理』もざっくりと臨床倫理のトピック、論点、考え方が分かり参考になった。

 

月の後半はクリスマスと年末に向かう、ふわふわした雰囲気の中、トルストイアンナ・カレーニナ』を読んで過ごした。最近よく一緒にいる人は、みてるみてないにかかわらずテレビが大抵ついている人で、私は人と一緒にいてもテレビがついていても、ふてぶてしく読書をしているのだけれど、あるテレビドラマの中の女の子がクリスマスイブを恋人(?)と一緒に過ごしたいって言っている横で、オブロンスキイは不倫(婚外恋愛)で妻になじられ、アンナはウロンスキイと恋に落ちアンナの夫は嫉妬し…みたいな泥沼が繰り広げられており、ギャップが面白かった。

 

ロシア文学と言えばドストエフスキーという思い入れがあって、トルストイを手に取る機会があんまりなかったのだけれど、先日の上智大学ヨーロッパ研のオンライン講演会で「アンナ・カレーニナを読んだことのない人は、これからはじめて読む楽しみが残っているわけだから幸せだ」と先生がおっしゃっていて、俄然読みたくなり、まんまとはまってしまった。トルストイは当初、不倫(婚外恋愛)をする女なんてとんでもない醜悪な女だと想定して書き始めたものの、結局めちゃくちゃ魅力的な女性に仕上がってしまったというエピソードがとても興味深くないですか。あと、最初の「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という一文がかなり有名なだけに、まってましたー!感でスタートできるのが良い。他に好きな最初の一文は、『風と共に去りぬ』の"Scarlet O'Hara was not beautiful"ですが、みんなのグッとくる最初の一文はなんなのだろう。気になる。

 

スペシャルか何かだった長大な音楽番組が流れていたとき、一緒にみていた人は放送される曲ごとにその曲にどういう思い出があって人生のどの時期にきいていたかを熱心に話しており、さして共感できず、私の10代、20代の前半の生活にJ-POPはあまり関わってこなかったことが身につまされた。先輩が営業していたバーでよくきいた(中島みゆき)とか、よく遊びに行ってた古着屋できいた曲(ジュディマリ)とかが断片的に転がっているぐらい。家族はクラシック、高校生の頃はつんつんしながら90年代の洋楽ロック。大学に入ってから仲の良かった友人たちやかつての恋人たちは、全く音楽を聴かないか、テクノ、エレクトロ、ジャズ、ロシアバレエ音楽などで、演奏を聴きに行った帰りに鴨川を自転車で駆け抜けながら耳に残っていた曲とか、親密な影が落ちていた昼下がりに二人で黙って聴いていた曲とか、思い出のワンシーンはゴールデンタイムのテレビから流れる曲とともに浮かび上がってこないので、だいぶ偏っているみたいだね。紅白に舐達磨とかkraftwerk出てくれると最高なんだけど。

 

年内の臨床実習終わった後、妹が収穫仕事の帰りに恋人と遊びにきて、みかんを大量にもらった。普通のみかん+紅まどんな(!)をたくさんくれて、皮をむきすぎて爪が黄色くなった。二人のためのランチとしてバターチキンカレーとひよこ豆のカレーをつくり米を3合炊いたものの、全部食べつくされ、肉体労働している人たちのエネルギーに圧倒された。妹の恋人は春のクマみたいに優しそうな人でした。帰り際に私の家の天井に張り付いていた蜘蛛の死骸を手づかみでとってくれた。天井に手がつくぐらい背が高いことと、なんでもないように蜘蛛を触ることにびっくりした。

 

 

 

 

2020消費したもの

2020の出来事を思い出すのに苦労したから、印象に残ったものたちをメモがわりにここに残しておきます。

買ったもの→読んだもの→観たもの の順。読んだものは厳選したつもりが整理しきれなかったので長い。

 

●買ったもの(主にファッション)

  1. 春夏の服として、とっても大好きなBLACK CRANEというブランドのワンピースを買った。服を選ぶときはもちろんデザインとかもみるけれど、私は物語中毒なのでだいたいいつもブランドのHPのAboutをみてから選んでいる。BLACK CRANEは環境に配慮した服作りをしていて、生地に至るまですべての生産工程をロサンゼルスで行っているので、地元のコミュニティにも貢献しており最高。私が手にしたのは過剰な装飾はないけれど、美しいドレープが施されているもので、お気に入りのお洋服になった。
  2. 秋はSERGE de bleuというブランドのデニムを買った。これは一度はいてもらいたいのだけれど、肌触りが感動するぐらい優しい。デニムは他にAPCのものを持っていて、比較してみるとAPCをフランスパンとするとSERGEはうどんという感じ。
  3. 冬はLapuan Kankuritのショールを買った。北欧プロダクトはこざっぱりしつつテキスタイルやデザインが素敵なものが多くて服に限らず、ついつい器や照明などを眺めてしまう。ショールはとてもあたたかくて、日中のちょっとしたお出かけはだいたいこれを羽織ってすませることができています。ひざ掛けとしても活躍。届いた直後はしばらく嗅いだことのなかった獣のにおいが充満していて、手洗いしたり干したりしてにおいをとる手間がかかったのが楽しかった。
  4. お弁当生活を数年続けていて、そろそろちゃんとしたランチバッグが欲しいと思っていたものの、納得のいくものに出会うことができなかったのだけれど、ついにLand Normのミニバッグに行き当たった。嬉しすぎる保冷機能付き。
  5. わたしは今まで適当に選んだキーホルダーを鍵につける派だったのだけれど、じゃらじゃらするのがストレスだったので、Hender Schemeのキーケースを選んだ。丸っこい半円のフォルムがとてもかわいく、半年ぐらい使用しているのでそろそろ手になじんできた。

 

●読んだもの(ミーハー読者なもので…)

  1. 今年は女性作家の本が特に印象に残った気がする。まずはルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引書』。レイモンド・カーヴァーが好きな人は絶対お気に入りになると思うのだけれど、文が短くドライで女性として日常を生きていくかなしさが淡々と書かれてあった。女友達とお茶を飲みながら静かに感想を言い合いたくなります。
  2. 一方、ミンジンリー『PACHINKO(上・下)』は確かに時代や男や社会に翻弄される女性たちが登場するのだけれど、ルシア・ベルリンの登場人物たちよりはもっと熱くて力強い感じがした。NETFLIXの「ストリートグルメを求めて」のアジア編をあわせて鑑賞すると市場の光景や食べ物を売る女性たちの生活風景がより鮮明になるのでおすすめ。あと在日コリアンたちの世代ごとのアイデンティティの持ち方の違いなどが読んでいて興味深かった。上巻読んでしまったら下巻は我慢できないので注意。
  3. 同じコリアン系の作家でいうと、柳美里『JR上野駅公園口』はホームレスが主人公なのだけれど、主人公と非ホームレスの人々の会話も視線も光景も全く交わらなくて、社会から疎外されることを文章で描くとこうなるのかという驚きがあった。もちろんその事実を受け止めないといけないのだけれど。数年前、駅前でBIG ISSUEを買ったときに私は売り手の目をみることができず、うつむいて受け取ったことを思い出したりした。
  4. もうひとつコリアン作家のチョ・ナムジュ『82年生まれ、キムジヨン』を読んだ。女であることが本当につらくなる小説で、一つ一つのエピソードは確かに私自身や近しい友人たちが経験したのとほぼ同様の出来事で読んでいてしんどかった。これは男性側はどう受け取るのだろう。映画化もされるので今よりもっといろいろな人の反応を見れるかな。
  5. 村井理子『兄の終い』は絶縁状態だった憎い兄の死後処理に行く村井さんのエッセイなのだけれど、安易に「なんだかんだ故人はいい人だったよね」ってならないところがよかった。家族だからこそ割り切れない気持ちを抱いたまま、事務的な手続きをしながら追憶したり、兄をめぐる母親との確執があったり、残された作者自身の生活を続けていく様子がリアルだった。
  6. 宮野 真生子/磯野 真穂『急に具合が悪くなる』。根治不能乳がんになった宮野さん(哲学者)と彼女を支える磯野さん(人類学者)の往復書簡。差し迫ってきた死や残された生を当事者とその親しい友人はどう受け止め、どう語るのか。二人の言葉や行動からは病に立ち向かう姿勢や、病者/健常者の関係性を考えさせられた。
  7. コロナの影響かわからないけれど、ディストピア小説が私の中では非常にあつく、マーガレット・アトウッド侍女の物語』(『誓願』はまだ読んでないからネタバレしないで)とジョージ・オーウェル1984年』を読んだ。どちらも数日間むちゃくちゃ気分が沈んだ。アトウッドが何かのインタビューで現実に女性の身に起きたこと、起きていることを元にこの小説を書いたといっていたが、小説ではなかったら受け止めきれなかったかもしれない。オーウェルのほうは人間性がどんどん剥奪されていく様、体制へ取り込まれていく様にアクチュアリティがあり、さすが古典といったところ。同じようなメッセージ性を感じた川上未映子『Golden Slumbers』のように一見ユートピアのように描くという方法もあり、このような現状の中、あわせて読んでほしい。
  8. スタニスワフ・レムソラリス』も素晴らしかった。SFってようわからんとずっと思っていたのだけれど、本著は未知と遭遇した時に人間はどう立ち向かっていくのかについて綿密に書かれていたし、世界観の設定も半端なものではなかった。SFって醜悪な宇宙人を征服するかされるかみたいな描き方をするもんだと勝手に決めつけていたところ、『ソラリス』では征服するどころか目の前にあるモノあるいは現象が何であるのかが最後までわからず人類の手に負えず、でも最後が特に印象に残った。
  9. アーサー・コナン・ドイル『シャーロックホームズ』シリーズは自粛中にNETFLIXで配信されていたBBC制作の「シャーロック」を見て読み返したりしていた。ミステリってあんまり読まないのだけど、シャーロックホームズはいつだって奇抜で鋭くて面白いね。ドラマは現代版にアレンジしてあって(ホームズ、携帯使う)原著と比較するとなお楽しめました。
  10. ピエール・ブルデューディスタンクシオン』はどうしても興味をもてなかった外科の実習中に読んでいた。ワルなので。12月のNHKEテレ番組「100分de名著」に選ばれており、毎回律義に予約&視聴をしたおかげで、よりよく理解できた気がする。読書したり、何かを視聴したりするたびに「ハビトゥス・・・」とつぶやきそうになった。

●観たもの

  1. 自宅待機でおそらくみながQBなどいそいそと仕上げていた期間、私はNETFLIXを一生懸命みていた。「ストレンジャーシングス」は80年代のアメリカ文化(服装や音楽の素晴らしいこと!)とかスティーブンキングのオマージュとかで浮かれてしまい、ホラー系ダメなのをすっかり忘れて、一日に1シーズンのペースで消化していた。さっき書いた「シャーロック」や「ストリートグルメを求めて」(アジア編、南米編)もおすすめだし、「ROMA」もぜひ観てほしい。それから「最高に素晴らしいこと」も。後者二つは言いたいことが多いのでどこかの機会でまた感想を書きます。
  2. 映画は「幸福なラザロ」が印象に残った。まず映画の光景が数年前イタリアの田舎を旅していたときに車窓からみたものと似ていて、時期も同じ夏であり、乾燥した大地やけだるげな時間、あの太陽の感じがとても懐かしかった。作品は現代の聖人の在り方を描いており、後半で田舎を離れ都市で暮らす人々の厳しい現実や、彼らの傍にいるラザロの神聖さが高まっていく様子がどこか寓話的だった。もう一つ、「スウィングキッズ」という映画をみた。最初はコミカルでげらげら笑ってるんだけど、収容所の現実から自由になれる手段だったダンスも、結局は大きなイデオロギーに利用されてしまう様があまりにも悲しくて最後は胸がつぶれました。
  3. 自粛期間中はネットの四方八方で色々な映像が無料で解禁され(ありがとう)、演劇では「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」(バッハと言葉と身体にくらくらする)、ミュージカルでは「ジーザスクライストスーパースター」(解釈が面白いし最後のシーンでの合唱がよい)、短編では「SKIN」(BLMを考えるうえでみておきたい)、アニメ―ションでは「霧の中のハリネズミ」(大人同士で感想を言い合いたい)がそれぞれの部門で私の一位です。

 

総括:忘れてたけど音楽は舐達磨とかLofi HipHopとかで過ぎていきました。人からみた私は優しそうにみえるそうですが、くさくさしたバイブスのときは「毎日毎日SmokeするMarijuana 俺が育ててる 俺と仲間達で育ててる」と歌ってます。本当はヒヤシンスを一人で育ててるけど。映画にしろ、本にしろ韓国のものが多い。音楽でもPeggy Gou大好きなのでコリアンカルチャーの影響はあちこちにあるね。2020は私にとって韓国の年だったのかも。みなさんはどうでしたか?よいお年を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウズベキスタン

 

中央アジアって物価安そうだし、青い建物きれいだし、年末はのんびり旅がしたい。入国ビザ無くなってるウズベキスタンいいやん。というふんわりした動機で、2019冬休みに2週間弱の一人旅に出てきました。

 

仁川空港ではやはりお馴染みの空港泊をした。休暇シーズンで旅行する人が多いからか、スリープスペースは満杯でしかたなく硬いソファでゴロゴロした。朝になると、空港の主催する4時間ぐらいの無料韓国歴史ツアーに参加した。外は雪が積もっており、寝不足の身体は凍え早くも帰りたくなった。空港に返されたあとは、辛い韓国料理をで体を温め、午後にやっとウズベキスタンの首都タシュケントに向けたフライトに搭乗した。現地到着が20時半の便なので、夜中着+空港から街までの移動手段がよくわからない+女一人旅のため今更不安になった。「タシュケント空港のイミグレ(イミグレーション)はクソ」という前情報に身構えていたにもかかわらず、とてもスムーズに通過し、両替もでき、simカードも購入できた。

 

おそるおそる空港の出口ドアをあけると、煙草を吸ってる怖そうなタクシーのお兄さんしかおらず「10ドル?」と聞かれ、交渉する元気もなかったこともあり、ドキドキしながら乗車した。かなりびくびくしていたけれど、無事宿に着く。猫ちゃんが可愛くてとてもcozyなところだった。レジストレーションを済ませていたら、お茶をしばいていた他の宿泊客に誘われ、お菓子とともにありがたく一緒に座らせてもらった。旧ソ連国から観光にくる人が多いみたい。「タクシー代10ドルはまあ、観光客には相場だけどぼったくり~」とのこと。

 

次の日はさっそくサマルカンドに移動する。大都市は発展しすぎていて、特徴があまりないように感じるので、なるべく地方に時間を使いたい。だから今回も首都は足早に立ち去ることになった。電車賃は窓口で買う金額の3倍ぐらいしたのだけれど(それでもこの旅の交通費は総額2万円ぐらい)、事前にネットで現地業者に手配をしてもらった。乗りたいアフロシアブ号は人気だし、時期も時期だし、そんなに旅の日程に余裕がないので満足。サマルカンドから宿へはまたタクシーで、6$(最初の言い値は15$)払う。帰りに宿のオーナーに手配してもらった金額は1.5$とかなんで色々察してほしい。受付のお兄さんは日本語の勉強中らしく、人懐っこく出迎えてくれなんだかほっとする。

 

さて念願のサマルカンド散策へ。道は中心部以外あまり舗装されておらず、人々の家はトタン屋根で、たまに野良犬も見かけたけど、中心街は賑やかで商店なんかもたくさんあった。近くのティムール広場では、あちらこちらで華やかなブライダル写真撮影をしており、理由をきくと、ここはウズベキスタン中の花嫁が憧れる写真撮影スポットで、国中から集まってくるんだとか。確かに目の前に広がる青い建物はとってもきれい。ウェディングドレスの白が映えるね。それにしても昔の砂漠の旅人たちは、突然ぬっとあらわれるこのティムールの威信をかけた巨大建造物にきっと驚嘆しちゃっただろうな。

 

あと建物をみてると思い出したんだけど、高校の頃、世界史選択者のなかにひょろっとした気胸になりそうな男の子がいて、彼のあだ名はミナレットでした。元気にしてるかな。

 

ウズベキスタンは観光に力を入れようとがんばっている国で、外国人が割と自由に行動できるようになったのは最近になってかららしい。そのため現地の人々の外国人慣れはまだ進んでおらず、歩いているだけでじろじろ見られたり、写真撮影を申し込まれたり、「こんにちは」と誰彼なしに声をかけられた。最初はなんてフレンドリーな国民性!と思っていたけど、一週間もたてば、ほっといてくれよ…と若干うんざりしてしまった。いい意味でも悪い意味でもアジア人観光客はとても目立った。

 

サマルカンドの宿は見かけはボロいなと思っていたのだけど、中に入ると中庭や延々と続く居住スペースがあり、暖房設備も十分で快適だった。タクシー代より宿泊費のほうが安かった(5$)。受付の男の子は、いつも困ったことはないかと気を使ってくれていた。現地で働くパキスタン人と世界周遊中の日本人のお兄さんたちとともに、夕食に誘ってくれもした。

24日のクリスマスイブはこの18歳のウズベク人の男の子とデートした。向かった一軒目はシーシャ屋であいにく停電していたから、煙がもくもく漂うなかに、人影がうっすら見えるアヘン窟みたいな場所だった。アヘン窟行ったことないけどね。その後連れていきたいとこがあると言われてタクシーの運転手を急き立て、昼間一人で眺めてたティムール広場についた。今この瞬間、ウズベキスタンにいてライトアップされたモスクをみて異国の男の子とデートしていると思うと気が遠くなった。その後は知らない人の結婚式が行われている大音量のアラブミュージックが鳴るレストランを訪れ、ダンスに誘われやけくそで踊って、提供されたラグマンとサマルカンドナンを一心に食べた。食事中普通に告白されたんだけれど、許嫁がいることを知っていたしワンナイトするタイプでもないし普通に断った。彼はあからさまに不機嫌になり食事代とタクシー代を全額私に払わせ帰宅した。

今は笑い話にできているけど、この話をすると友人たちには大いに心配されたし、本当に何もなくてよかったと思う。翌日世界周遊中のお兄さんたちに顛末を話したら、モンゴルで野良犬に追いかけられた話や、中国のクラブで脅されて10万円とられ命からがら逃げ出した話などをしてくれて慰められた。

 

クリスマスはイスラムの国に存在していいのか、と帰国してからよく聞かれた。ウズベキスタン社会主義国ソ連に支配されていた影響からか割とその点ルーズなようで、魔法使いの弟子のミッキーのようなコスプレをして男女とも楽しそうにクリスマスツリーの元に集っていた。さすがにメリークリスマスという表示はなかったけれど。

 

 次の目的地ブハラでは、より街が茶色くて砂漠感と田舎度合いが増していた。もちろん、映え映えの青い建造物がここにもあった。修学旅行と思わしきちびっ子たちに囲まれて、私とそれらの建造物が彼らの写真フォルダに収まった。お礼にバラの花をもらった。中央アジア最古のイスラム建築と言われているイスマーイールサーマーニー廟がテキスタイルがシンプルで面白く、どこか原始的で、建物としての趣が個人的に一番好きだった。 

 

タシュケントに再び戻った。共用スペースで一緒にだらだらしていたマレーシア人の女の子Mと仲良くなる。旅行してても、なんだかんだ言って自分の国で培った習慣を変えられないことが多いよねという話をした。欧米人は、欧米にありそうな内装のお店で溜まりがちだし、韓国人はわざわざ韓国カップ麺を持ってくるか現地の韓国料理屋でしか食べないし、日本人はシャワー必ず浴びる。と二人で偏見を言い合った。Mは旧ソ連国が好きすぎてマレーシアでロシア語を勉強し、今回は仕事を変わる期間を利用してウズベキスタンに飛んできたらしい。

二人でお茶を飲んでるとタシュケントの巨大な市場に連れて行ってくれることが決まった。最初は一人で行くよと言ったものの「あそこにあなた一人を行かせるわけにはいかない」という警告をされた。実際に行ってみると確かにこの市場はただただカオスで、ぜひ動画で見せたいのだけれど、人も匂いもモノもありとあらゆるものがごちゃまぜで放置されていた。秩序が見当たらない。牛肉の塊を積んだワゴンにひかれそうになったり、客引きにつかまったり、買ったザクロを食べたりして楽しんだ。ザクロってこんなにおいしいんだね。Mの言う通り、ウズベク語なりロシア語が分からなければ、帰りの駅にもたどり着けないし、何も買えなかったかもしれない。ありがとうM。帰るついでにソ連の残したまるでSFの舞台のような地下鉄の駅で写真撮影大会を開催した。帰国の日はMが玄関まで見送りにきてくれて、彼女から倒福のラッキーチャームをもらった。お互いハグし、よい人生を!といって別れる。またどこかで会えたらいいな。

 

ウズベキスタンって危ない国じゃないのときかれることがあるけれど、観光地には警官がたくさんおり、悪いことをしていない観光客にとっては、街を探索するときに安心感があった。観光客ずれしていないので人も優しい。物価が安いので、貧乏旅行でも三食きちんと食べれる。お酒はおいしくない(ワイナリーでワイン飲んだけど同時に出されたコニャックの方がおいしかった)けれどイスラム圏らしくお茶文化が発達していて、ティーハウスがいたるところにあり、お茶好き人間には嬉しい。ご飯は名物プロフに始まり、ラグマン、マンティなどなど中央アジア料理、ロシア料理が混ざっていておいしい。雑貨もかわいい。青い建物インスタ向き。欠点といえば、タクシー運転手の強引さと英語があまり通じない点ぐらい。でも通じないほうが旅に来たって感じがしていいんじゃないかな。どうでしょう。機会があればぜひ行ってみて感想を聞かせてほしい。